2008年6月21日土曜日

スイスワインコラム5

(5)ワインの色1

ワインというと、赤、白、ロゼという色の分類がある。赤は通常ルビー色を基準として表現されることが多い。白は実際にはミルクみたいな白い色のワインは存在しない。透明から金色を基準に表現されることが多い。ロゼはピンク色が基準となる。従って、実際にはワインの色の基準は、ルビー、ゴールド、ピンクだ。ナチュラルなワインに、ブルーやグリーンの色のものは存在しない。

このワインの色は、白の場合、ブドウ液や発酵の結果、金色がかってくる。それに対して赤は、赤ワイン用の見た目に群青や紫といった色の皮を持つぶどうを使い、皮ごと発酵させて、発酵によるアルコール成分によって、色素がワインに溶け込み色づけされる。よって、赤色系のぶどうをただ絞ってワインを造れば、白ワインになってしまう。

例えばフランスのシャンパンなどは、通常赤ワイン用のピノ・ノワールという品種と、白ワイン用のシャルドネという品種を混ぜて造るが、ピノ・ノワールはただ絞ってブドウ液を取るだけなので、シャンパンの色は白ワインの様に明るい金色が基調となる。

赤ワインも注意深く見ると、明るいルビーから深いルビーまであって、またワイングラスの縁に紫がかった色を映すものと、オレンジがかった色を映すものとがある。白は透明に近い明るい金色から深い金色まであって、ワイングラスの縁に緑がかった色を映すものと、黄色がかった色を映すものとがある。ロゼは、ピンクを基調にやはり、やや紫がかったり、オレンジがかったりする。

白は通常金色の度合いが強い程、味が濃厚な(あるいは甘い)傾向にある。赤はルビー色の度合いが強い程、味が濃厚な(あるいは渋い)傾向にある。赤の場合、紫がかり、白の場合、緑色がかる色合いは、温度管理が行き届いた発酵をしているワインで、若いワインであることを示している。一方赤でオレンジ色がかり、白で黄色がかったものは、南の国などで、比較的高い温度で発酵したワイン、あるいは熟成したワインであることを示している。

この様に、色を見ただけで、そのワインがフレッシュタイプか、濃厚なタイプか、若いワインか、熟成したワインかなどが判断出来る。

スイスワインで、シャスラから造られる白ワインは大抵やや緑がかった明るい金色に造られ、アミーニュというブドウから造られる甘口白ワインは濃い金色をしている。東スイスで一般的なブラウブルグンダーから造られる赤ワインは、やや紫がかった明るいルビー色をするものが一般的で、南スイスのメルローから造られる樽熟成の赤ワインは、深いルビー色をしている。

2008年6月15日日曜日

スイスワインコラム4

ワインの歴史とスイス3
15世紀頃、ワインの全盛期を迎えたヨーロッパであったが、その後量的には減少していった。まず打撃となったのがペストの流行だった。14世紀中頃から始まりヨーロッパの人口の4分の1を奪ったというペストは農業をも衰退させた。さらに30年戦争などの戦乱が拍車をかけた。そしてワインも量より質の時代を迎え、北方のブドウ畑は姿を消した。

歴史が中世から終わりを告げて、近代に入る頃、ワインも科学の恩恵を受けることになり、醸造学が確立していった。醸造学の父、パスツールは酵母の働きを解明し、顕微鏡で発酵中のワインを観察しただけで、その味を言い当てたという伝説が残っている。

それと呼応するように、記念的な当たり年、1811年が訪れ、丹念に作るワインの素晴らしさをヨーロッパ中の人が知ることになった。この年、その素晴らしさのため、エーベルバッハ修道院で「カビネット」ワインが生まれ、ドイツワイン格付けの礎となった。

続いて、1855年ボルドーワインの格付が行われ、ワインが輸出用の高級商品としての地位を築いて行くようになった。こうしたワイン文化の発達に陰を落としたのが、アメリカよりもたらされた病害虫フィロキセラだった。1860年代に被害が広がり始め、まずはフランスのブドウ畑が破壊される。わずか20年の間に、約百万ヘクタールのブドウ畑がフィロキセラによって破壊された。

スイスも19世紀末よりフィロキセラの被害に遭っている。この甚大な被害は、アメリカのブドウ樹が免疫を持っていたため、これを台木にして従来のブドウ品種を育てるという方法で徐々に食い止められていった。スイスのティチーノ州では、このフィロキセラ対策の為に輸入されたアメリカーノ種が、生食用に適している事から、生食用にも広く栽培されている。最近ではこれから造られる独特なワインも販売されている。アメリカーノ種の持つ独特な芳香が喜ばれ、ワインだけでなく、グラッパの原料などにも用いられている。

このフィロキセラの克服と時期を同じくして、現代のワインが生まれた。それはスチール製発酵槽の発明からであった。それまでのワインは出来不出来の差が激しくあった。同じ醸造者でも、発酵用の木樽が違えば味が違うというのが当たり前だったのだが、この発明によって品質が一段と向上、そして安定していった。

昔は、いい出来のものが逸品として王侯貴族に飲まれ、不出来のもの(こちらの方が多い)が一般庶民に出回っていた。それが現代ワインとなって、昔なら王侯貴族が飲んでいた、いい出来のものが一般庶民にも渡るようになったのだ。

さらに醸造学や栽培学が向上し、一貫した科学的な管理の元に、常に最良の品質のものが生産されるようになった。今や人に管理出来ない問題は天候を残すのみとなったとも言われる。しかし、天候の悪い年でも、醸造家は悪いなりに努力をして、生産量を落とすなどの犠牲を払いつつ、一定の品質を世に出すようになっている。

現代科学の恩恵はスイスワインも受けている。スイスのワイナリーを訪ねると、その醸造所にはスチールタンクが立ち並んでいる。そしてそれを熟成させる樫樽の熟成庫が続いている。スイスワインの代表ぶどう品種、シャスラで造られる白ワインは、きっちりと温度管理がされ、とてもフルーティに仕上げられる。それは恐らくは、昔なら王侯貴族でしか楽しめなかった味なのかも知れない。

余談であるが、あまりにも科学的な管理に抵抗を感じる醸造家もおり、昔ながらの木製発酵槽を使って、細心の注意を払いながら良質なワインを造ろうと努めている醸造家も少なからずいる。昔に立ち返ることも、醸造家の腕の見せ所となっているのだ。

2008年6月8日日曜日

スイスワインコラム3

(3)ワインの歴史とスイス2

ローマ人がスイスにワインをもたらした経路は、ローヌ川沿いにのぼる水路と、イタリア北部アオスタからスイスの西部ヴァリス州マルティニィを結ぶ、グラン・サン・ベルナール峠を越える陸路、イタリア・ヴァルテッリーナ渓谷からシーザーも越えたというユリア峠を越えて東スイス・グラウビュンデン州のクールに至る陸路などが知られている。

こうしたスイスワインの下地を確実にしたのは、ゲルマン民族の大移動 によってケルト人をスイスの地から追いやったゲルマン人だった。ゲルマン人はローマを征服し、一時はワイン文化を衰退させたが、ゲルマン人がキリスト教化されるにつれて、ワインも復活されていった。

ゲルマン人によるワイン文化の定着と開花は、一代にして西ローマ帝国皇帝に登りつめたカール大帝に始まる。カール大帝はカロリング・ル ネッサンスの立役者でもあるが、ブドウ畑の拡大にも力を注いだ。当時のキリスト教教会や修道院はワイン醸造の技術を脈々と伝えていた。 ローマ教皇より西ローマ皇帝に戴冠したカール大帝は、キリスト教会を 保護し、その浸透と共にブドウ畑を拡大させて行ったのだ。カール大帝は世界の白ワインの心臓部、ライン地方を最初に目をつけた人物として も知られている。

教会や修道院のブドウ畑拡大はめざましいものがあった。一説によると、この独占的なワインによって、人々はワインを求め教会を訪れたとも言われる。ゲルマン人といえばビールが民族的な酒として知られているが、当時はワインの方がビールの消費量を上回ったという。ブドウ畑 は現代の北限を越えて北は北海まで達した。この当時はドイツ人さえ ワインが国民の酒だった。

ワインとして名前が知られている修道院には、何といっても、フランスのクロ・ド・ヴィージョ、ドイツのエーベルバッハなどがある。なおクロ・ド・ヴィージョの修道院は現存していない。スイスのザンクト・ガ レン修道院もブドウ畑を持っていた、当時は草分け的な修道院だった。 10世紀頃の記録として、品種改良が進み、貯蔵庫に収まりきれず、庭に樽を並べたとある。

スイスもこの時期に教会や修道院の指導のもと、ブドウ畑が作られていった。しかし、氷河谷とアルプスで成り立つ国、スイスでのブドウ畑開墾は大変な労力だったという。急峻な山の斜面を切り開き、石垣を 作ってブドウ畑を作る。それは厳しい自然との闘いでもあった。

世界遺産に指定されたヴォー州のラヴォー地区は、その姿を今も止めている。特にデザレを産する地域は傾斜がきつく、遠くから見るとその斜面は崖に見える。その崖を急峻な石垣状のぶどう畑に変えてしまったスイス人の努力には大変驚くものがある。デザレ地区の景観はブドウ畑としては世界屈指の美しさを称えている。そしてその名を冠したワイン、 デザレ・グランクリュA.O.C.はスイスを代表するワインとしても知られている。

ブドウ畑開墾の全盛期を迎えつつあった頃の1291年、スイスの建国 が成された。これはスイス原三州と呼ばれる3つの州、シュヴィーツ、 ウーリ、ウンターヴァルテンの各州が永久盟約を結んだ年で、これを現在のスイス連邦は建国とみなしている。因みにこの3つの州でもワインを生産しているが、生産量は極めて少なく、地元消費のみでスイス国内でも流通していない。

なお、スイスが正式に独立を認められたのは1648年のウエストファ リア条約によってである。それまでは、法律的には神聖ローマ帝国の皇帝直轄領だった。当時皇帝は、他の諸侯勢力の拡大を抑えるため、方々の都市に自由特許状を与え、自治を容認していたので、事実上は以前から独立していた。

2008年6月2日月曜日

スイスワインコラム2

(2)ワインの歴史とスイス1
葡萄自体は人類の文明以前に既に広範な地域で繁殖していたらしい。そ の葡萄を発酵させて飲み物を作ったというのがワインの始まり。飲むと 酔っぱらうから命の水とされ、特別な儀式などで飲まれたらしい。ま た、薬としても用いられた。原始的なワインはどぶろくみたいなもので、それにオリーブオイルやハ チミツ、はたまた海水までを加えて飲んだらしい。今のワインとは全然 違う。エジプト文明が栄えた頃に、ようやく透明なワインが造られ出し た。ギリシャ人もワインが好きだったが、この様な混ぜものワインにと 合わせて、生タマネギなどを食べていたそうだ。当時の食文化はかなり 辛口嗜好だったようだ。(まだ砂糖のない時代なので仕方がないといえ ば仕方がない)

この時代のワインを復活させたワイナリーがある。残念ながらフランス・ローヌ地方のワイナリーだ。
http://www.tourelles.com/article.php3?id_article=116

ローマ時代になると現代のワインに近いものが作られる様になる。紀元 前121年は空前の当たり年で、この年を境に混ぜものをしないワイン が飲まれるようになったという。ローマ人はワインの醸造に改良を加 え、発酵の温度管理や木樽による熟成などを開発している。現代ワイン の原形はローマ時代に築かれたのだ。この当時スイスはまだ国として存在していなく、ケルト人の住むガリア という地方の一部だった。ローマ人はガリアの征服を進めると共に、こ の地域にワイン文化をもたらした。これがヨーロッパにワインが伝わる 第一歩となった。

ドイツとスイスの間に横たわるボーデン湖の遺跡から古い葡萄の種が発 見され、トイトニカという野生葡萄品種だとわかった。これは4〜5千 年前のものとされている。このトイトニカはかの有名なリースリングの 原種なのだが、実際その時期のケルト人はワインを造らず、ただ葡萄 ジュースとして飲んでいたようだ。

ローマ時代に今のスイスの領土に住んでいたケルト人、ヘルベティー族 は、こうしてローマ人の影響によってワインをたしなむようになって いった。この頃をガロ・ローマ文化と呼んでいる。

ローマの初代皇帝アウグストゥスは北イタリアの優良葡萄を南スイスや 南チロルに移植している。このアウグストゥスが最も好んだというの が、イタリア・ロンバルディア州北部、スイス国境に位置するヴァル テッリーナだと言われている。今日の南スイス、ティチーノもローマ時 代の影響を今に伝え、優良なワイン産地となっている。