2008年6月8日日曜日

スイスワインコラム3

(3)ワインの歴史とスイス2

ローマ人がスイスにワインをもたらした経路は、ローヌ川沿いにのぼる水路と、イタリア北部アオスタからスイスの西部ヴァリス州マルティニィを結ぶ、グラン・サン・ベルナール峠を越える陸路、イタリア・ヴァルテッリーナ渓谷からシーザーも越えたというユリア峠を越えて東スイス・グラウビュンデン州のクールに至る陸路などが知られている。

こうしたスイスワインの下地を確実にしたのは、ゲルマン民族の大移動 によってケルト人をスイスの地から追いやったゲルマン人だった。ゲルマン人はローマを征服し、一時はワイン文化を衰退させたが、ゲルマン人がキリスト教化されるにつれて、ワインも復活されていった。

ゲルマン人によるワイン文化の定着と開花は、一代にして西ローマ帝国皇帝に登りつめたカール大帝に始まる。カール大帝はカロリング・ル ネッサンスの立役者でもあるが、ブドウ畑の拡大にも力を注いだ。当時のキリスト教教会や修道院はワイン醸造の技術を脈々と伝えていた。 ローマ教皇より西ローマ皇帝に戴冠したカール大帝は、キリスト教会を 保護し、その浸透と共にブドウ畑を拡大させて行ったのだ。カール大帝は世界の白ワインの心臓部、ライン地方を最初に目をつけた人物として も知られている。

教会や修道院のブドウ畑拡大はめざましいものがあった。一説によると、この独占的なワインによって、人々はワインを求め教会を訪れたとも言われる。ゲルマン人といえばビールが民族的な酒として知られているが、当時はワインの方がビールの消費量を上回ったという。ブドウ畑 は現代の北限を越えて北は北海まで達した。この当時はドイツ人さえ ワインが国民の酒だった。

ワインとして名前が知られている修道院には、何といっても、フランスのクロ・ド・ヴィージョ、ドイツのエーベルバッハなどがある。なおクロ・ド・ヴィージョの修道院は現存していない。スイスのザンクト・ガ レン修道院もブドウ畑を持っていた、当時は草分け的な修道院だった。 10世紀頃の記録として、品種改良が進み、貯蔵庫に収まりきれず、庭に樽を並べたとある。

スイスもこの時期に教会や修道院の指導のもと、ブドウ畑が作られていった。しかし、氷河谷とアルプスで成り立つ国、スイスでのブドウ畑開墾は大変な労力だったという。急峻な山の斜面を切り開き、石垣を 作ってブドウ畑を作る。それは厳しい自然との闘いでもあった。

世界遺産に指定されたヴォー州のラヴォー地区は、その姿を今も止めている。特にデザレを産する地域は傾斜がきつく、遠くから見るとその斜面は崖に見える。その崖を急峻な石垣状のぶどう畑に変えてしまったスイス人の努力には大変驚くものがある。デザレ地区の景観はブドウ畑としては世界屈指の美しさを称えている。そしてその名を冠したワイン、 デザレ・グランクリュA.O.C.はスイスを代表するワインとしても知られている。

ブドウ畑開墾の全盛期を迎えつつあった頃の1291年、スイスの建国 が成された。これはスイス原三州と呼ばれる3つの州、シュヴィーツ、 ウーリ、ウンターヴァルテンの各州が永久盟約を結んだ年で、これを現在のスイス連邦は建国とみなしている。因みにこの3つの州でもワインを生産しているが、生産量は極めて少なく、地元消費のみでスイス国内でも流通していない。

なお、スイスが正式に独立を認められたのは1648年のウエストファ リア条約によってである。それまでは、法律的には神聖ローマ帝国の皇帝直轄領だった。当時皇帝は、他の諸侯勢力の拡大を抑えるため、方々の都市に自由特許状を与え、自治を容認していたので、事実上は以前から独立していた。

0 件のコメント: